なにになっても、人間らしい、正直なくらしをするつもりです。
生きかたに自信がない人が、
杜子春は唐の都,洛陽の金持ちの息子でしたが財産を使い果たしてしまい、その日の暮らしにも事欠くようになっていました。
杜子春が「こんな貧乏でみじめな思いをするぐらいなら死んだ方がましかもしれない」と考えながら洛陽の門の下でぼんやり空を眺めていると、一人の老人がやってきて杜子春に話しかけました。
びっくりした杜子春が顔を上げると、老人はもういませんでした。
杜子春が老人に言われたとおりにすると黄金が出て来て、彼は洛陽一の大金持ちになりました。
杜子春はその金貨で立派で大きな家を買って贅沢な暮らしを始めました。
すると、今まで付き合いもなかった友人たちが次々に遊びにくるようになりました。
しかし三年もすると黄金も無くなってしまい、杜子春はまた家も食べ物もない貧乏になってしまい、声をかけてくる人もいなくなってしまいました。
杜子春が再び洛陽の門の下でぼんやり空を眺めていると、以前と同じ老人がやってきました。
そして老人は人込みの中へと消えていきました。
黄金を手にした杜子春は翌日から再び洛陽一の金持ちになりました。
しかし相変わらず贅沢し放題な生活を続けたので、三年も経つと黄金は全て無くなってしまいました。
そうして杜子春がまた洛陽の門の下でぼんやり空を眺めていると、あの老人がまたまた杜子春の前へとやってきました。
老人は以前と同じ問いをし、杜子春は同じように答えました。
老人が黄金の埋まっている場所を杜子春に示そうとしたところ、杜子春は「お金はもういらないのです」と話を遮ります。
なんでも杜子春は”金があるときに寄ってきて無くなると声もかけない人間たち”には愛想が尽きたとのことです。
実は老人は峨眉山に住む鉄冠子という仙人であり、杜子春は彼に弟子入りを志願します。
鉄冠子は「りっぱな仙人になれるかどうかはお前次第だ」と言い、杜子春を峨眉山に連れて行きます。
鉄冠子はこれから天上に行くから、留守の間待っているように杜子春に言いつけます。
自分がいない間に魔性の者がお前をたぶらかそうとするだろうが、決して声を出してはいけない。
もし一言でも声を出したら、お前は仙人にはなれない
鉄冠子がいなくなってしばらく経つと「そこにいるのは何者だ」と恐ろしい声とともに大きな虎と大蛇が現わました。
そして、天変地異に見舞われたり、神将の矛に貫かれたりしましたが杜子春は決して声を上げませんでした。
これらはすぐに消え失せた幻覚でしたが、杜子春は岩の上で息絶えて魂は地獄へと降りていきました。
地獄で杜子春は閻魔大王に「なぜ峨眉山の上にいたのか」を尋ねられます。
杜子春は相変わらず黙っていたので、あらゆる地獄の拷問に責められました。
それでも杜子春は口をきくことはありませんでした。
とうとう閻魔大王は馬に変えられた杜子春の両親を連れてきて、鉄の鞭で馬の両親を打ち付けます。
杜子春は固く目をつぶって耐えていましたが、母親の優しい声に思わず目を開けてしまいました。
お前が幸せになれるなら私たちはどうなってもいいから、黙っておいで
母親はこれだけの苦しみをうけているのに杜子春を恨むことなく、そればかりか思いやりの言葉さえかけてくれるのです。
金があるときに寄ってきて、無くなると去っていく世間の人に比べるとなんとありがたいことのでしょう。
杜子春は鉄冠子との約束も忘れて母親の元に走り寄り、首を抱いて涙を落しながら「お母さん」と叫びました。
気がつくと、杜子春は峨眉山に行く前の夕日を浴びて洛陽の西の門の下にぼんやりたたずんでいるところでした。
鉄冠子が「俺の弟子になってもとても仙人にはなれんだろう」とニヤニヤしながら言ってきました。
仙人にはなれませんが、なれなかったこともかえって嬉しい気がするのです。
あの地獄で鞭を受けている両親の姿を見ては、とても黙っているわけにはいきませんでした
もしあのまま黙り続けていたら、お前の命を取るつもりだった
これからは仙人でも大金持ちでもなく、人間らしい正直な暮らしをするつもりです
今日限りもう会うことはない。
泰山の南のふもとにある一軒家をやるからそこに住むが良い
鉄冠子は笑いながら去っていきました。
仙人にはなれなかった杜子春でしたが、「これからどうするのだ」という鉄冠子の問いに、今までにない晴れ晴れとした気持ちで答えることができました。
杜子春の気持ちにどのような変化があったのでしょうか。
この小説の前半と後半で杜子春の心情が変化しています。
物語冒頭の杜子春は、ぼんやり空をながめていて、死ぬことまで考えています。
鉄冠子から「お前は何を考えているのだ」と不意の質問を受けて杜子春は“さすがに目をふせて、思わず正直に”答えるのです。
金持ちから再び貧乏になって鉄冠子から同じ質問を受けた時の杜子春は”恥ずかしそうに下を向いて”しばらく返事もできませんでした。
杜子春は2度も金持ちにさせてもらっても、同じ失敗を繰り返して散財して使い果たしてしまう自分を情けなく恥ずかしく思っている自信の無さが視線に表れています。
そして杜子春は貧乏と金持ちの両方を経験したおかげで、人の二面性というものを身をもって知ることができました。
貧乏になっても一緒にいてくれるのが本当の友人と言いますが、杜子春にはそのような友人は結局できませんでした。
自らの贅沢三昧の行いは棚に上げているのは考えものですが、
と、金が無くなると去っていた友人たちを批判します。
かなりの人間不信に陥っていたのでしょう。
この時「人間は皆薄情です」という杜子春の言葉を聞いた鉄冠子が「急ににやにや笑い出した」のは、杜子春が金より誠実な心を欲する正直な人であることを再認識したからでしょう。
ところが、まだこの時点で杜子春には迷いがありました。
という鉄冠子の問いかけに対して、杜子春は「ちょっとためらう」様子を見せました。
そして、
と言い出すのです。
お金はいらないと言いながらも、今後の生活の不安は無くなることはない。
またあの貧乏な暮らしをしていく自信がないので、途方に暮れて道ばたにぼんやりたたずんでいたのです。
どことなく何に対しても吹っ切れない杜子春でしたが、地獄で母親からあたたかい言葉をかけられて、「相手を思いやる気持ち」「誠実であること」「見返りを求めない愛情のある優しさ」を知りました。
これで自信がついた杜子春は「晴れ晴れした」様子で、仙人にはなれなくても貧乏人として生きていくことになったとしても誠実に人間らしく生きていく決心をします。
生き方に自信がなくいつもうつむいているような人は、杜子春身をもって学んだ「人間らしい生き方」を思い出してみましょう。
杜子春が学んだ「人間らしく生きる」には
まずは自分のやりたいことに正直になりましょう。
自分にウソをついても苦しくなるだけです。
そして、生きていくうえで人間関係はどこにいってもついて回ります。
良好な人間関係は、人間らしい生き方と切っては切れないもの。
良好な人間関係に必要なのは「他人への思いやり」と「損得勘定抜きの無償の愛」です。
お金があると寄ってきて、無くなったら去っていくようなのは論外です。
思いやりと無償の愛で繋がった人間関係は一生続きます。
良好な人間関係を築ければ、あなたの人生を応援や手助けをしてくれて、あなたのやりたいことがうまくいくようになります。
そうすれば、生き方に自信もついて、ますます人間らしい生き方ができていくでしょう。