人間は誰でも猛獸使であり、その猛獸に當るのが、各人の性情だといふ。
自分本位の態度に問題があると思って人間関係に悩んでいる人が
古代中国の唐の役人、李徴は秀才で知られ若くして地位高いポストに上り詰めました。
しかし、尊大で野心家、自信過剰な性格であったので今の地位や生活には満足できずに役人を辞め、詩人になる道を選びました。
しかし、彼の想いとは裏腹になかなか詩人として認めてもらえず初めて挫折を味わいます。
李徴は妻子を養うために仕方なく再び役人に戻りますが、かつて彼が見下していた連中が彼より出世していて馬鹿にされて彼の自尊心はズタズタになってしまいます。
そしてある時、ついに李徴は発狂してしまい夜中に野山へ駆け出していき、それっきり帰ってはきませんでした。
翌年、李徴の旧友の袁傪が林の中を歩いていたら、一匹の虎が草むらから飛び出てきてきました。
袁傪に襲い掛かると思いきや身をひるがえして元の草むらに隠れたと思うと、人間の声が聞こえてきました。
李徴の話によれば、山の中を走っていると体が次第に虎になっていき、そのうち心も虎になっていくのを感じたといいます。
そして李徴は袁傪と少し話をしたのち草むらに消えていき二度と姿を見せることはありませんでした。
李徴が袁傪に「なぜ虎になったのか」と思い当たる原因を話しています。
李徴は虎になった原因を以下のように述べています。
それが今回紹介した名言です。
人間は誰でも猛獸使であり、その猛獸に當るのが、各人の性情だといふ。
人は誰でも心の中に"猛獣"になる要素を持っている。それが猛獣になるかどうかは各自の性格によるのだ。
そして李徴の場合は次の2つが李徴の心の中にいた虎が暴走させてしまいました。
何故こんな運命になつたか判らぬと、先刻は言つたが、しかし、考へやうに依れば、思ひ當ることが全然ないでもない。人間であつた時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといつた。實は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかつた。勿論、曾ての郷黨の秀才だつた自分に、自尊心が無かつたとは云はない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいふべきものであつた。己は詩によつて名を成さうと思ひながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交つて切磋琢磨に努めたりすることをしなかつた。かといつて、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかつた。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所爲である
おれは人との交流を避け人に教えを請うことはしなかった。そんなおれに人々は生意気だと言った。しかしそれは才能がないことが明らかになるのが恥ずかしかったからだ。
そして、自らは優れた人間であると思い上がって努力をすることを怠った自尊心もあったのだ。
結局は「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」のせいだったのだ。
つまり李徴は"自分は優れた人間だ"と思い上がっていた一方で、"自分には本当は才能がないんじゃないか"という不安も抱えていたのです。
さてこの「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」とはどういう意味なのでしょうか?
「羞恥心」(しゅうちしん)というのは「恥ずかしい気持ち」のことです。
「尊大」というのは、「偉そうにすること、横柄な態度をとること」です。
先ほどの引用にもある通り、李徴は人との交わりを避けていて周りの人たちからは「李徴は尊大な奴だ」と思われていました。
しかし、李徴は「それはほとんど羞恥心に近いものだった」と袁傪に語っています。
つまり李徴は人と接するのが恥ずかしいあまりに、横柄な態度をとって人と交わってこなかったということです。
その恥ずかしい気持ちとは先ほどもあった通り、才能の無さを指摘されることですね。
「自尊心」とは、自らの尊厳やプライドを守りたい気持ちです。
李徴は自尊心が高い男なのですが、それは「臆病なもの」だったのです。
己の珠に非ざることを惧れるが故ゆえに、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。
自分の欠点を指摘されることを恐れて誰にも意見を求めることもせず、自信過剰でもあったので教えを請うこともしなかった。
つまり李徴は自尊心を守りたいがために、傷つきたくなく臆病になっていました。
だからそうならないように、人と交流することをやめてしまったのです。
以上の「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」のために、李徴は人と交わることなく生きてきました。
そしてもう一つ、李徴が虎になった原因を袁傪は何となく感じていました。
李徴の詩を聞いた袁傪は、見事な作品だと思いつつも、「何かが欠けている」と首をひねっています。
しかし、袁は感嘆しながらも漠然と次の樣に感じてゐた。成程、作者の素質が第一流に屬するものであることは疑ひない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何處か(非常に微妙な點に於て)缺ける所があるのではないか、と。
確かに素質は一流だが、この詩が一流になるには何かが欠けているのではないか?・・
では、一体 ”何が” 欠けているというのか…?
それは「人間らしさ」ではないでしょうか。
李徴は完全に虎になってしまう前に袁傪に2つの頼みごとをしました。
そして李徴は最後の最後になってこのことを自嘲しています。
本當は、先づ、この事の方を先にお願ひすべきだつたのだ、己が人間だつたなら。飢ゑ凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を氣にかけてゐる樣な男だから、こんな獸に身を墮すのだ。
人間なら一番先に家族のことをお願いするべきだった。これからの苦しい生活を過ごしている妻子のことよりも、自分の拙い詩のことを気にかけているから、こんな獣の姿になってしまうのだ
ここでいう人間らしさとは「他者を思いやる心」ですね!
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が心の中の虎を解き放ち、「人間としての心」まで食い尽くしてしまったのではないでしょうか。
そんな心を虎に支配された李徴の姿が虎に変化したと表現されているのですね。
李徴はその性格が原因で虎になってしまったわけですが、「自尊心」と「羞恥心」のない人間などいるのでしょうか?
この名言でも分かる通り人は誰でも「虎になる要素」を持っているわけで、李徴が特別なわけでもないのです。
李徴はその気持ちが強すぎて誰にも相談できず人にも頼れず、結局交流すら絶ってしまいました。
まずは人に頼ることでこの2つの気持ちは克服できるでしょう。
そして、人間らしい「思いやりの心」も失ってはいけません。
それを失ったら人間ではなくなり、李徴のように虎に変わってしまいます。
李徴は虎になる寸前でも家族のことよりも詩を広めてほしいと自らの自己顕示欲を優先させていました。
もし家族のことを第一に思いやれていれば、完全に虎にならなかったのかもしれません。
もし、自分第一、自分が一番と思い込んでいる人がいたら少しだけ他の人のことを思いやってみましょう。
人生は何事をも爲さぬには餘りに長いが、何事かを爲すには餘りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事實は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭ふ怠惰とが己の凡てだつたのだ。
人生は何もしないで過ごすにはとても長いが、何かを極めようとするにはあまりも短い。
口ではそう言っていながら、才能の無さが暴露されることへの恐怖と人から教えを請うことを拒否していたことが全てだった。