おなじところを さがしながら ちがうところを おたがいに おもしろがれば いいんだね
自分と性格や見た目、考え方が違う人を認めない人が、
ぼくは宇宙飛行士。
星の調査をするのが仕事で、色んな星で色んな人たちに会ってきた。
今日行った星は、目が3つあってびよーんってしてる人たちが住んでいる星。
その人たちは目が3つあるから、前も後ろも同時に見えるらしい。
僕は「背中が見えないのがかわいそう!」って驚かれちゃった!
そんな星にも生まれつき「後ろの目だけ見えない」人がいて、ぼくと話が盛り上がった。
そして生まれつき「全部の目がみえない」っていう人もいた。
その人とぼくの「見る」ことはすごい違っていて、ぼくは思わず「へーーー!」って言ってしまった。
でも違うところばかりじゃなくて、似ているところもきっとあると思う。
どんな人とでも「だよねー!」って言えるはずだよね。
って思いながら僕は次の星へ飛んでいる。
宇宙飛行士のぼくは色んな星で、体も性格も生き方も違う人たちに会ってきました。
違うところもたくさんありましたが、同じところもたくさんありました。
人のことを知るって楽しいなと思いながら、ぼくは次の星に向かっています。
この言葉についてヨシタケシンスケさんは伊藤亜紗さんとの対談でこう話しています。
絵本の最後のところに、「同じところをさがしながら、違うところをおたがいに面白がればいいんだね」という文章があります。最初は、ここに「おたがいに」という言葉を入れていませんでした。 大人向きの本であれば、そのままでいいんです。でも、子どもに「ちがうところを面白がればいいんだよ」だと、誤解を受けてしまいかねない。
正直、私はこの対談の記事を読むまでこの「おたがいに」という部分に気がつきませんでした。
しかし、知ってからはこの「お互いに」という部分は障がい者、健常者関係なく全ての間柄に通じるのではないかと心が震えました。
自分とは違うものをもつ相手のことに興味を持ち、うらやましがったり面白がるのは信頼関係があってこそ成立するものです。
一方的にそのようなことをするのはからかいやいじめにつながっていくのではないでしょうか。
相手はすごく気にしているかもしれない。心を許せる相手だったら気にならなくても、あなたに言われたら傷つくかもしれない。そして、自分がされた嫌だったことは人にしない。
人間関係の基本ですよね。
ところで一般的には「目の見えない人」=障がい者と捉えてしまいますよね。
こんな風に思われていて、いかに「見えない人はどうやったら見える人と同じように生活していくことができるか」を考えていく世の中です。
もちろん、これは大事なことなのですがこれは‟福祉的な”観点からの意見であり、他の観点からの考えがあってもいいはずです。
「みえるとかみえないとか」の原作の「目の見えない人は世界をどう見ているか」では、想像力を重視した「身体論」の観点からの考えを述べています。
福祉的な考えだと「与える側」と「与えられる側」という上下関係ができてしまいがちです。
しかし、「身体論」は「見える人」と「見えない人」の世界は隣同士にあるという考え方をしています。
「うちはうち、よそはよそ」的な考え方で、「そっちの世界も面白そう」という‟友達”や”ご近所さん“のようにつきあいたい。
実際、著者の伊藤亜沙さんは全盲の人に「そっちの世界(見える世界)も面白そう」と言われて、そういう考えもあるんだ!と衝撃を受けたそうです。
見えない世界にいる人が、どのように感覚を使って活動しているのか知りたくないですか?
私は吃音者です。話すときに言葉がつっかえたり出てこなくなったりしてうまく話せないことが多いです。
なので、子どものころ(高校生くらいまで)は真似されたりからかわれたりしてとても嫌で辛い経験をしてきました。
今このブログを書いてみて「なぜ当時は辛かったのか」と思い返してみると、それは「お互いに」という部分が抜けていたからだと思います。
そして、わたしも相手のことを理解しようとしていなかったのかもしれません。
なぜ、相手がそのようなことを言っているのかを理解しようとしなく、自分のことだけを分かってもらおうとしていたのかもしれません。
一方的にこちらの世界に呼び込んでも、相手は戸惑うだけですよね。
ずかずか土足で相手の世界に踏み込んだら驚かれて扉を閉められてしまいます。
自分のことを理解してもらいつつ、相手のことも理解しようとする余裕が必要ですね。