この世でいちばんさびしいものは、遠い冥途への旅立ちを決めてしまった魂なのだ。妄想は友情の絆よりも強く彼女をとらえ、地上との結びつきもほどいてしまったようだ。
生きる気力を失うほど落ち込んでいる人の励まし方が分からない人が
重い肺炎で生きる気力を失ってしまった画家のジョンシーがベッドに寝ながら、窓の外を見ています。
窓の外のレンガの壁には、古い枯れかけたツタがからまっていました。
ジョンジーはそのツタを見ながら、「あのツタの葉っぱが全て落ちたら私も死ぬの」と寂しそうにつぶやいています。
それを聞いた同居人のスーはひどく悲しみ、同じアパートの画家の老人、ベアマンは烈火のごとく怒り、医者はあきれてしまいました。
葉っぱの枚数は日に日に減っていき、最後の一枚を残して嵐になってしまいました。
翌朝ベンシーが窓の外を見ると、葉っぱは落ちずに残っているではありませんか。
ベンシーが感動して生きる気力を取り戻した時、ベアマン老人が肺炎で死んだとの知らせが入りました。
スーはベンシーに「ベアマン老人が嵐の中絵の具で葉っぱを描いたのよ」と告白するのでした。
ジョンシーは窓の外の葉っぱが落ちたら自分も死ぬと完全に生きることを放棄していました。
同居人のスーが「あなたがいなくなったら私はどうすればいいの?そんなこと言わないで私のことも考えて」と泣き崩れますが、ジョンシーは何も答えません。
友情よりも、周りからのサポートより、生きることをあきらめた気持ちは孤独で協力なのです。
この話のテーマは「生きる糧と友情」ではないでしょうか。
ジョンシーは肺炎になって完全に生きる気力を失っていました。
医者が「生きる糧」を見つければ治る確率は高くなると言うのに、本人の気持ちが乗ってこないのですから、どうしようもありません。
自ら生きることを放棄した人間には、もう何を言っても聞く耳をもたないでしょう。
とは言っても、最後に生きる糧を発見するのはやはり人の力であり、友情なのです。
スーとベアマン老人の友情や愛情が描いた最後のひと葉がジョンシーに生きる糧を与えました。
本当に病気で死んでしまうという人に対する接し方はとても重いもので触れられたくない感情もあるでしょうから、ここで話すのは止めておきます。
それよりも、仕事に失敗したとかお金を失くしたとか、恋人にふられたとか
本当に死ぬわけではないけど、本人からすれば「もう死んだも同然」、「死んだ方がましだ」という気持ちになっていることは結構あるんじゃないでしょうか?
そういう人たちにただ励ましの言葉だけかけても、全く耳にはいっていないでしょう。
魂が離れていっているからでうs。
「どうせ 俺なんか・・」
「私ばっかりがこんな目に・・」
まずはその人の気持ちが生きようとしていないことを分かってあげましょう。
そして俺が(私が)これだけ言ってあげて世話してあげてるのに! とヤケを起こしてはいけません。
まだ気持ちが友情に応えられるほど回復していないんです。
それでも、立ち直らせ生きる糧を与えるのはやはり、あなたの友情であり愛情しかありません。
ジョンシーも最後のひと葉はわたしを立ち直らせるために誰かが書いてくれたと理解してから、生きる気力を持ちました。
自分から葬儀屋にむかおうとする人間には、どんな薬も効果がありません。
しかし、患者が自分の葬式にやってくる馬車の数をかぞえはじめたが最後、薬のききめは半減してしまうでしょう。
病気を治して命を助けるのは医者だけではありません。
患者自身も「助かろう」「絶対助かる」という気持ちを持たなければ、せっかくの治療も効果が薄れてしまいます。
医者と患者が協力してこそ、命が助かるというものです。
きっと、だれかが、わたしがどれほどおろかだったかをわからせようと、あの最後のひと葉をあそこにのこしてるんだわ。自分から死にたがるなんて罪なことね。
ジョンシーは嵐が過ぎてもまだ落ちずに残っていた一枚の葉っぱを見て、妄想の魂を呼び戻しました。
それは、スーとベアマン老人の愛情のたまものでもありました。