ごんはぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
他人の気持ちや感情を察するのが苦手な人が
昔、ある山の中に一人ぼっちの「ごん狐」が住んでいました。
ごんはいつも村の人たちにいたずらをして困らせていました。
魚を網で取っていた兵十にいたずらをしたのも、いつものような軽い気持ちからでした。
ごんは兵十の捕った魚を次々に川に戻してしまいます。
しかし、うなぎだけは首に巻き付いてきて手間取っていたら兵十に見つかってしまい、慌てて逃げ出して首から外したウナギを山に捨てました。
それから何日かたって、ごんは兵十の母親の葬式が行われているのを知ります。
兵十がうなぎを獲っていたのは、病気の母親のためだったのか
(俺のした軽いいたずらのせいでうなぎを食べられなくて、)母親はうなぎを食べたいと思いながら死んだに違いない
あんないたずらしなけりゃよかった・・・・・
次の日からごんは兵十の家へ魚、栗、マツタケなどの食べ物をこっそり届けるようになりました。
しかし、兵十は神様がしてくれたことだと神様に感謝しているのを聞いて、ごんはやるせない気持ちになります。
それでも、次の日も栗を持って兵十の家に入っていきましたが、兵十に見つかってしまい銃で撃たれてしまいました。
家の中に置いてある栗を見て、兵十はごんがいつも食べ物を持ってきてくれていたのを知るのでした。
ごんが食べ物を盗みに来たと思われて撃たれてしまった後、兵十はごんが食べ物を持ってきてくれたことに気づくのです。
ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは
まず、知っておいてほしいことがあります。
ごんが後悔していることは‟ごんの思い込みや推測でしかない”
ごんは自分の後悔と思い込みから、兵十に懺悔の意味で食べ物を運んでいたのです。
もしくは母親を亡くした兵十と一人ぼっちである自分と重ね合わせて共感したのかもしれません。
つまり、兵十は「なぜごんがわざわざこんなことをしたのかいまだに分かっていない」のです。
でも、ごんにとってはそんなことはどうでもいいのでしょう。
ただ、食べ物を運んでいたのが自分であると分かってもらえたら満足だったのでしょう。
新美南吉のオリジナル原稿「スパルタノート」では、
権狐はぐったりなったまま、うれしくなりました。
と書いています。
子供向け児童文学様に編集された際にカットされたようなのです。
このことを知っていれば「ごんは分かってもらえて嬉しかったんだな」と推測できるのですが、カットされた以上はもうそこは各読者が推測するしかありません。
むしろ正解は一つではない方がいいと思います。
正解のない主人公の気持ちを推測するには相手のことをいつもより深く知ろうとしなくてはいけません。
そういう訓練にはこの本は子どもにとっていい本だと思います。